
連続する刹那に自分の存在を刻む【管理人のエッセイもどき:2025年7月10日】
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匿名キーマスター
人生には意味も目的もないというと、非常に寂しい、乾いた人間だなと思われてしまうかもしれません。しかし、色々と考えてみると、やっぱり意味も目的もない気がしてなりません。10代中盤くらいから、この考えはずっと変わっていません。なんなら、年齢を重ねるごとにその考えは確証を増していく一方です。
夢があるとか、目標があることを否定したいのではなく、生きるという行為そのものに因果関係や希望があるというものではないだろうと思っています。生まれるか否か・生き死に・最初の環境などといった、人生を決める上で最も大きな要因が最初から決まっているのがこの世界です。確実に訪れると分かっているのは死だけであって、生きるという行為には不確定なものしかありません。この不完全さや理不尽さを考えると、生きるとは偶然の産物であると考えたほうが話が早いと思うのです。
これはもう、仕方がないということで決着をつけた方がいいのではないかと思っています。抗えないし、抗うものでもないのだと思うのです。
もしかすると、これを読んでくれた方の中には「夢も希望もない、つまらない話だ」と思う方もいらっしゃるかもしれません。しかし、人生に意味も目的もないと考えた方が、結果的に人生にメリハリが生まれ、張り合いのある・満足できる生き方を体現できるという見方もあると思っています。
10代中盤の頃、ふと人生には意味も目的もないと思い至った僕ですが、最初はまぁまぁ絶望しました。そんな風には教わりませんでしたからね。逆に、僕が今まで教わってきた人生論(論と呼ぶのかは分かりません)的なことで言えば、人生には夢や希望があるというものでした。この教えには、ずっと違和感を持っていました。夢とか希望。それは目標的な話です。目的ではありません。大切なことをひた隠しにされてる気がする。今思うと、漠然とですがそんな風に考えていました。
そうなんだろうなと、自分の中で1つの結論として片付けようと思った時、僕はバンド活動に熱中していました。ライブをやったり、レコーディングをしたりする中で、刹那的に生きていることを感じていました。この辺りから思うようになりました。生きた実感をいくつ刻み込めるかを実践したほうがいいのだろうなと。つまり、あらゆる手段を突き詰めていく理由は、刹那の連続である生きるという行為の中に自分が存在しているということを刻む事であると考えるようになったのです。
随分気持ちが楽になりました。
自分が音楽にのめり込むのは、この世に存在していることを自分と世界に刻み込むための本能だったのだと思えたからです。この瞬間、僕は音楽に依存しなくなりました。自分の存在を刻み込むために必要ならば、曲も歌詞も作るし、ライブもする。パフォーマンスも磨こうと努力するし、知識だって身に付ける。そういう付き合い方が良いというのが明確になったのです。
同時に、音楽に固執しなくなったのもその時からでした。あらゆる手段が連続する刹那に存在を刻むためのものならば、音楽以外でも自分の存在を刻む方法があるとわかったからです。
そうやって、あらゆるひたすらに自分の生きた証を刻んでいくことで、生きることに意味や目的がなくても、瞬間瞬間で「生きてる」ということを強く実感し、その鮮烈さに満足することが出来るようになりました。今もその感覚は続いています。出来れば、一生そうでありたいと思っています。
そんな風に生活するようになってから、劇的に悩む時間が減りました。悩んでいる時間というのは、自分の存在が揺らいでいる状態だと考えるようになったからです。
今書いているエッセイもどきも、それ以外に書いている記事も、形は複雑になったかもしれませんが、結局は同じようなことです。手段であることに変わりはなく、必要であればあらゆることを身に付けてみせます。
今日も、がやてっくにアクセスしてくれてありがとうございます。
これからも、がやてっくを宜しくお願い致します。大した話ではないことを、実に深刻そうに語ってみました(笑)
僕はそうやって生きていますが、実際は、好きなスタンスで生きていけばいいのだと思っています。
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