楽しいという感情が生まれる背景の1つに雑多的であることが大切だと考えているのですが、この世の中に雑多的なものを作るのは非常に難しいと考えていて、どうすれば理想的な配合の雑多感を生むことができるのかを常に考えています。確かに、今の世の中にも雑多的なものはあります。SNSのタイムラインなんかは、ある意味では雑多的です。ただ、SNSのタイムラインの雑多感を見て楽しいと感じる人は少ないのではないかと思っています。雑多は雑多でも、楽しいと感じるような雑多には、それを満たすいくつかの条件のようなものがあって、この条件がうまく溶け合っている状態、理想的配合の雑多感の中でしか、楽しいという感情は生じないのではないか。そんなことを、ずっと考えています。
視て・聴いて、楽しいか美しいかをなんとなく判断している中で、カラフルであるか色が統一されているかで感じる印象が変わるなと思ったことを機に、そんな分類を始めてみたのですが、意外と判断軸が曖昧だし、数値化してみようと考えると、一気につまらなくなったので、この2つを明確にする方法がないかを模索しているというのが現状なのですが、そんなことを追いかけている今がとても有意義です。
雑多感に理想の配合があるのは間違いなく、その配合を追い求めることが僕のライフワークになっています。
最近、がやてっくに掲載した情報をアレンジして、新聞を作ろうと考えているのですが、この新聞には理想の配合と偶然性を追求した雑多感を取り込んでいきたいなと考えています。こどもしんぶんとフリーペーパーを作ろうと思うのですが、もしも自分記事を掲載したいっすみたいな人がいたら、ぜひがやてっくにご連絡ください。重要なのは雑多的であり、そこに時間の長さや儚さを織り交ぜて美楽を生み出すという方針です。
そういうの得意ですという人がいたら、一緒に情報紙を作ってみませんか。お待ちしております。