
いいじゃん、退屈もご褒美だ【エッセイもどき:2025年6月7日】
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がやてっく管理人ゲスト
退屈を吹き飛ばすにはどうしたらいいのでしょうね?
先日、とある方とお話をしている時に、こんなことを聞かれました。
その方は、「私は今人生に退屈しているとは思わないけれど、ふと自分がやっている事を俯瞰で眺めた時に、なんて退屈な事をしているのだろうと思う時があるんです」と僕に胸中を話してくれました。僕には、この言葉の意味がなんとなく分かるような気がしました。確かに、今こうしてエッセイもどきなんて書いていると、自分の人生がすごく充実しているように感じます。でも、例えばこれを霊体となった僕が天井付近から眺めているとしたら、パソコンの前に何時間も座っているだけの退屈な人間に見えるはずです。
自分の心の中はすごくワクワクしているけど、結局やっていることは地味に映るということは沢山あると思います。それは自分にしか見えないことですから、誰かに地味か派手かを判断してもらうことは出来ません。いや、そもそも「地味で何が悪い?」とか「地味じゃダメなのかい?」と言ってしまうのもアリなんですよ。でも、それをいっちゃおしまいだなとも思う。何かにこだわっている・何かに夢中になっているからこそ、俯瞰で見たときの退屈っぽさが許せないって話なのだから、一時的な結論として、そんな風に片付けてしまうのはちょっと違うんじゃないかなって、話を聞いたときの僕は思ったんです。
結局のところ、この胸の中にあるワクワクを誰かと分かち合うことができない限り、この退屈っぽさに感じる苛立ちにも似た感覚は晴れることがないのかもしれません。自分だけが楽しければそれでいいと頭では理解していても、心のどこかで、あるいは本能的には、誰かとこの面白さを分かち合いたいなという思いが潜んでいる。そういう風に思いました。
それは、とても幸せな事だなと思います。誰かに教えたい・誰かと分かち合いたいと思えるほど、強烈に魅せられている何かがあるということは、自分がこの瞬間を捧げているということになります。以前、良き理解者がいることは、素晴らしいなんてことを、このエッセイもどきの中で書いたような気がするのですが、誰かと分かち合うという行為は、そういう理解者みたいな人を見つけられるかどうかで、それは限りなく運命に近いものだと思うから、今自分に出来ることは、結局のところ「自分がこれが好きだ」と胸を張ることなのだなと。
もちろん、僕はその人の良き理解者でいたいと思っています。そういう人はきれいだし、周りにも綺麗な人が集まりやすいから、きっと素敵な次元にまで、大勢の人を連れて行ってくれると思うのです。
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